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“たとえそれでも朝陽は昇る”

継続的に1日の始まりに練習をするからこそ『アシュタンガヨガ』なのだと常々思っています。 シャラに通えず宅練であろうが、オンラインを繋ぐ繋がないにかかわらず、どこだってマットの上に立って練習をし始めれば、順番も視線の先も決まっているので、集中が途切れることはないし、それどころか呼吸をつないでいけば勝手に集中は増すばかり。 そうこうしているうちに自分の内側へと深〜く潜って、掻き分け、探って、また分け入って。

さらに掘り起こし、出てきた それ を眺め、時には それ と対話して。 でも、見たくない、知りたくない、無意識に目を逸らしていたものと対峙することもしばしば。 それらを都合よく否定することなんてできないし、結局は自分の一部だし、全部ひっくるめて認めて、受け入れて。 そんな作業の繰り返し。 苦手だなと思うアーサナでいつも拒否反応起こして、身体を緊張させていたらいつまでたっても心地よい呼吸なんてできやしない。 いつも堂々巡りのループになってしまうなら、大抵は迷宮に入り込んでいるんだから、まずは一歩引いてみて。まずは俯瞰でその状態を上から眺めてみて。 絡まった糸が見え始めたのならしめたもんだ。

ヤツはとんがって攻撃なんてしてこないよ。 自分から歩み寄り、にっこり笑顔作れば、呼吸も自然と穏やかに。 落ち着いて冷静になればその接し方も見えてくる。 あとは優しく水をやり、丁寧に肥料をまいてじっくり観察。 焦っていたら、地下で根が広がっていくことや、やがて地表に小さな芽が出てくることには気が付かない。 全身にアンテナ張って、レーダー探知機みたいなのを設置して、時たま僅かに反応する それ を観察。 眺めていれば、調和しようと動き始めてくるからその変化を見逃さないよう引き続き観察。 そんな作業の繰り返し。 こうしたものは、受け身ではないマイソールスタイルで練習するからこそ、内側から自然発生的に静かに湧いてくるのかなと。


自分を知る。ちっぽけな自分という存在を知る。 自分を過信し、知ったかぶりするのはよくないことだし、自分をより理解することで臨機応変に対処できる幅も広がるとも思っています。怪我病気を未然に防ぐという意味でも。 長い人生の中で、自分を取り巻く環境は、安定を願っても、不定期に容赦無く様々に形を変えながら否が応でも移り変わります。 誰しも予期せぬタイミングで何らか変化は起こりますよね。 いつだって我々は試されている。 その度に慌てふためかないような、ブレない軸、強い芯を備えておきたいものです。 ひどく嫌な出来事があって、それを引きずり枕を濡らしながら眠りについたとしても、、、 すごく充実した1日を過ごした後、その余韻に浸りながら寝たとしても、、、 “たとえそれでも朝陽は昇る” 明けない夜はないし、前日までの積み重ねを経て、また新たな1日が始まります。 いつだって太陽は暗闇の向こうからやってきて、いつも我々を照らしてくれます。

せっかく始めた練習をぷっつりとやめちゃうのは勿体無い。 新しく練習を始める人も、再開する人も、もちろん継続的実践者も、 我々を生かしてくれている、でっかい太陽に感謝することを忘れちゃいけない。 太陽への礼拝は欠かさずに!


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